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Hの音楽遍歴(EDM編)

Electronic Dance Music ( EDM とは? ) この音楽ジャンルのおかげで私は音楽を日常的に聴くようになった。 今回は、私がEDMと出会い、その虜になったきっかけについて書いていこうと思います。 1.おすすめ欄に現れた「謎の動画」 中学生になり、初めてスマホを買ってもらった私は、YouTubeで時間を潰す日々を送っていた。 ある日、適当に動画を見ていたら、おすすめ欄に見慣れない動画が表示された。 英語のタイトルで、再生数は数億回。 気になったので、迷わずそれをタップした。 「Music Video」と書かれていたので、音楽とわかった。 覚えていないが、この時聴いたのは多分Showtekの「Booyah」だったと思う。 その動画を配信していたチャンネルがSpinnin' Recordsだった。 それから私は、同チャンネルの人気の曲をいろいろ聴き始めた。 2.謎の外国人 いろんな人気曲を聴いていると、MVに出てくる一人の外国人が気になった。 「さっきの曲でもこの人出てきたけど、誰なんだ?」 気になった私は、タイトルに表示されている英語を一文字ずつ見ながら入力して検索した。 そこでヒットした名前がMartin Garrix(マーティン・ギャリックス)。 彼が世界的な音楽プロデューサーであることを、その時初めて知った。 ちなみ、その時検索のきっかけになった曲はDimitri Vegas, Martin Garrix, Like Mike - Tremor だった。 3.虜になったきっかけ Martin Garrixをきっかけに、MVで共演していたDimitri Vegas & Like Mikeにも興味を持ち、また一文字ずつ見ながら検索をした。 その時、彼らのチャンネルに「 Bringing The Madness 2016 (以下、BTM 2016)」というライブ映像がアップされていた。 2時間30分にも及ぶ長い動画を視聴し、私は衝撃を受けた。 DJと観客が生み出す一体感と熱気、そして「あるMashup」を気に入る。  Mashup とは? 1時間36分44秒からの Swedish House Mafia vs. Alesso & OneRepublic vs. 3 Are Legend - Don't You Wor...

Hの音楽遍歴

昔々、私は音楽があまり好きではなかった。 学校の音楽の授業で、一人ずつ歌わされる時間が苦痛で仕方なかった。 しかし、それ以前に音楽を嫌いになった出来事がありました。 今回は、私がどのようにして音楽を嫌いになり、そして好きになったのかをお話ししようと思います。 1.音楽を嫌いになった出来事 きっかけは、初めて連れて行ってもらったカラオケだった。 当時、6歳か7歳だった私は、初めての場所に興奮してはしゃぎ回っていた。 その勢いで私の手が父のビールジョッキに当たり、中身をこぼしてしまった。 そのことで、 父にはえらく怒られた。 それ以来、私は「音を楽しむ」ことがなくなった。 それから約11年間、私がカラオケには行くことはなかった。 そもそも音楽に限った話ではなく、私は全てにおいて 人前で何かをするのが苦手だった。 特に何かを「披露する」ことが嫌いで、 失敗した時に周囲からとやかく言われるのが不快だった。 何事も一人きりの環境で行いたいと、昔から思っていた。 2.音楽を好きになったきっかけ そんな私 が、音楽に興味を持つきっかけがあった。 ある時、テレビで流れた「 なかやまきんに君」のマグマスパゲッティのネタを見て、そこで使われていたBon joviの「 It's My Life  」を気に入った。 この当時はまだスマホを持っておらず、自分で音楽を聴く手段がなかった。そのため、三兄のスマホを借りては、その曲を聴かせてもらっていた。 中学生になり、自分のスマホを持つようになると、 YouTubeでEDMに出会い、日常的に音楽を聴くようになった。 EDMとの出会いについては長くなりそうなので、音楽(EDM編)にてお話しします。 3.嫌いなカラオケでの出来事 三兄と釣りに行く際、車内のオーディオにスマホを繋いで音楽を流すことがあった。 私は洋楽ばかり好んで聴いていたため、邦楽はあまり流さなかったのだが、 私の好きな曲を流しても三兄は無反応。 そこで私は、なるべく三兄も知っていそうな曲を探して流すようになった。 ある時、H Jungle with tの「 WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~ 」 を流した。 すると三兄が「H、この曲知ってるなら今度カラオケで歌えよ」と言ってきた。 カラオケ嫌いの私は「まずその場に行くことはないだろう」と思っていた...

家庭金融伝・闇金H君

今回は家族に貸すことよって増やしたお金については話そうと思います。 1.手元にない大金 私は50万円近くのお金を持っている。 持っていると言っても手元にはない。 「無職で今まで働いたことがない私が、どうしてそんなにお金を持っているのか」と不思議に思うかもしれない。 実は、今まで家族からもらったお金をコツコツと貯めてきたからである。 2.資金源のルーツ 私がどうやってお金を集めたのか、主な方法は以下の通り。 ・お年玉 言わずと知れた子供時代、最大の稼ぎ時、正月。 自分のお金の大半はお年玉によって得たと思う。 両親、祖父母、叔母、兄などから頂いたものをすべて貯金していました。 ・お手伝い賃 父のDIYや白菜の漬物作りなどで、1日1,000円貰えることもあった。 この頃はおそらく、我が家の金回りがよかったんだろう。 また、日常の家事でも稼いでいました。 夕飯前の食器並べや、両親の晩酌で使う炭酸水の準備などで1日あたり100円を得ていた。 最初は1作業10円だったが、作業日報を書くのが面倒になったので、「1日100円」で取引先(母)と契約を結んだ。 これを粉ミルクの空き缶に貯金し、1年かからないで22,000円を貯めた。 ちなみに粉ミルク缶1/3ほどで硬貨貯金に飽きたが、 満杯だったら10万円は越えていたのではないだろうか。 ちなみ10円貯金は1年ほどで2,000円ちょいだったと記憶している。 ・散髪代の余り 中学生の頃から、1カ月半一度通う床屋の「散髪代のおつり」も貯金していた。 親から散髪代を貰っていたのだが、毎回親に「おつりはあげる」と1回200円貰っていた。 自分の所持金から端数の100円硬貨2枚を払うとおつりはなんと500円硬貨1枚になる。 500円貯金もしていたが、豚の貯金箱が満杯になる前に母から「お金貸してほしい」と言われ、仕方なく貯まりたての500円玉達を貸し渡した。 500円貯金は豚の貯金箱がすかすかの状態だったのでそんなには貯まっていなかった。 母に「貸してほしい」と言われた時点で2万円ちょいだったと記憶している。 硬貨貯金は100円貯金に飽きたときにすべてやめた。 これら以外にも何かしらで貰ってはいたが、おおよそはこんな感じ。 ・お小遣いは貰っていない 引きこもり不登校だったこともあり、月々のお小遣いはあまり貰っていなかった。 そもそも外に出ないから使...

消えない曇天「希死念慮」

※この話には「自殺」に関する表現が含まれます。苦手な方は閲覧をお控えください。 また、本記事は読者に対して自殺を助長・教唆するものではありません。 私は不登校になって以来、自殺を考えるようになった。 今回は不登校になってから今日まで、常に私の頭の片隅に存在し続けている曇天、「希死念慮」についてお話ししようと思います。 1.言葉の裏に隠れた心配 不登校になってから、父と父方の祖母に「はやく学校に行け!」などと厳しいことを言われるようになった。 今となっては、それが心配からくる言葉だと理解できる。 しかし、当時の私は学校へ行けないことへの自己嫌悪や病気への不安など、さまさまな要因に悩まされていたため、父や祖母の言葉の裏を読み取る余裕はなかった。 むしろ、その言葉をそのまま受け入れ、ますます自分を責めるようになった。 両親が私とは関係のないことで喧嘩をしている時でさえ、「私が学校に行かないせいで喧嘩しているんだ」と思い込み、自分を責め続けていた。 2.芽生え始めた自殺願望 自己嫌悪に陥り、「自分には存在する価値がない」と感じて、死にたいと思った。 両親の不在の際、台所で包丁を手に取り、自分のお腹に当てたが、怖くて刺すことができなかった。 包丁を元の位置に戻し、 家族に気づかれないよう声を押し殺して、布団の中で泣いた。 カウンセリングには通っていたが、医者に何を言われるか、あるいはどう思われるかが怖くて、自殺願望については話すことができなかった。 何度か実行しようとしたが、いつも「失敗した時のこと」が頭をよぎり、怖くて最後までやり切ることはできなかった。 3.家族への相談 ある時、親に「死にたい」と打ち明けた。 すると、親は「そんなこと、誰しも一度くらいは思ったことがあるよ」とあしらわれた。 誰しも死にたいと思うことはあるだろうが、実際に行動に移そうとする人はあまりいないと思う。 私の考えと家族の考える「死にたい」という言葉の持つ重みが違うと、この時にわかった。 また、「世の中には生きたくても生きれない人もいるんだよ」とよく諭されるが、私としては「なら、その人の人生を代わってあげたい」と思ってしまう。 家族が良かれと思って掛けてくれる助言は私には合わず、ただの「騒音」のように感じてしまう。 以来、家族に自殺についての相談は無意味だと思い、この事については話さなくなった。 そ...

不登校(高校生編)

1年の浪人を経て、チャレンジスクールへ進学、10カ月通った後に再び不登校に戻り、 そして引きこもり無職へ。 今回は通算6年に及ぶ不登校生活、最後の1年の「高校生時代」についてお話しようと思います。 1.始まらない高校生活 高校受験では1年浪人したため、大学受験では同じ轍を踏まないように高校生活は青春を楽しむより勉強を頑張ろうと思っていた。 4月から高校生活が始まると思っていたが、新型コロナウイルスの緊急事態宣言により入学式が中止され、6月まで自宅学習に。 自宅学習期間は学校から教材が送られてきて、宿題も出された。 時々、会ったことのない担任の先生から「規則正しい生活を送れているか」などのよくある質問に答えるだけの電話があった。 塾もオンライン授業だけになったので、外出が減った。 5月の終わりに、担任の先生から「6月から通常授業が始まります」と連絡があった。 高校生活の初日は、教師と生徒だけ参加の簡単な入学式のようなものだった。 椅子に座って校長先生の話を聞き、担任の先生から予定表などを受け取って終わった。 他の生徒は半袖のYシャツを着ていたが、私は長袖のYシャツで登校した。 帰り際、校長先生に「今日は長袖暑いだろ!水分取って気をつけて帰れよ!」と言われた。 6月の曇りの日はまだ寒いだろうと思っていたが歩けば暑かった。 長らく引きこもっていた私は今日は気温が何度と言われても何を着れば快適かわからなかった。 高校での数学と英語の授業は基礎的なことしかやらなかった。 コロナの影響による授業の遅れを取り戻すためなのか、1年生だからなのかはわからなかった。 私は塾で数学と英語を学んでいたので高校の授業ではもっと発展的なことも教えてほしいと思っていた。(わがまま) 数学と英語以外は知らないことばかりだったので学びを得られて楽しかった。 2.謎の視線と、体力不足 同じクラスメイトで私のことをジロジロ見てくる女子Oがいた。 私がOの方に向くと、彼女は他の方に視線を逸らし、私が別の方を向くと彼女からの視線を感じる。 最初、ひきこもりによる私の肌の白さを物珍しく見ているのかなと思っていたが、何ヵ月経っても見てくるため、私が何か悪いことでもしたのかと不安になった。 体力測定があった。 腹筋を1分間に何回できるかや、シャトルランの回数など、いろいろなテストがあった。 最後の長距離走で私は倒...

不登校(中学生編)

小学校を卒業し、地元の公立中学校へ進学した。 しかし、入学式には出席せず、私は不登校のまま中学生になった。 今回は、不登校生活6年のうち、3年目から5年目にあたる「中学校時代の3年間」についてお話しようと思います。 1.数えるほどしか行かなかった1年生 1年生の時は、合計で10日も登校していなかったと思う。 学期が変わる際に行われた、校長先生・担任・母・私の四者面談で行ったことくらいしか覚えてない。 1年生の担任だったTは、小学5、6年生の時の担任S.Kほどではないが、苦手なタイプの人間だった。 何事も「良いじゃん、良いじゃん、ちょっとやってみようよ」と、人の気持ちを考えないで来るタイプの人間だった。 私は押し付けられるのが嫌いなので、自然と「Tとは合わないな」と思った。 兄三人が通った塾に、自分も通うことになった。 塾の先生はとても気さくな人柄で、接しやすかった。 しかし、塾へ行くたびに「H、今週は学校に行けたか?」と聞かれた。 先生に悪気はなく、純粋に心配してくれていることは分かっていた。 けれど、その期待に応えられない申し訳なさと、毎週の問いかけによるプレッシャーに耐えきれず、次第に休むようになっていった。 ある日、床屋の帰りに両親と塾へ顔を出しに行くと、 先生が一人、埃まみれになりながら荷物の整理をしていた。 そこで、塾を閉校すると告げられた。 私が入塾したとき、生徒は三人しかいなかった。 私以外の二人は中学受験が終わると同時に退塾しており、いつの間にか私一人の状態になっていた。 結局、先生には申し訳ない気持ちを抱えたまま、お別れすることになった。 この先生とは、休憩時間に雑居ビルの一室でよくキャッチボールをした。 また、先生が旅行先などで買ってきてくれたお土産を、一緒に食べたこともあった。 そんな温かい思い出があるからこそ、先生の期待に応えられなかったことが、今でも悔やまれる。 2.脱・不登校に向けた動き(2年生) 2年生の3学期から、放課後に別室登校をするようになった。 きっかけは自分の中で「不登校のままじゃ駄目だ」という思いが強まったこと。 私は親に、新しくできた別の塾へ通わせてほしいとお願いした。 塾では英語と数学を教えてもらっていた。 学力が小学4年生から進んでいないため、数学は算数から始めた。 週2日の通塾を機に、「学校にも少しで良いから行ってみ...

不登校(小学生編)

私は逆流性食道炎になってから6年ほど不登校でした。 (逆流性食道炎になった経緯については こちら ) 今回は、始めの約2年間についてお話しをしようと思います。 病気になるまでは「学校に行きたくない」といった気持ちはなかった。 勉強は嫌いだったが、図工や体育のように好きな科目もあった。 友達もいた、人間関係に問題もなかった。 しかし、病気をきっかけに父と祖母(父方)に対する嫌悪感が生まれ、さらに担任教師S.Kとの不和が重なり、人間関係にも悩むことにもなりました。 1.ダメ人間の兆し 病気になり体調が悪くて登校出来ないときもあったが、毎日ではなかった。 週に2日、痛み止を飲めば登校出来そうな日はあった。 だか、休めばゲームができると馬鹿げた考えが自分にはあった。 5日間は体調が悪くて寝込み、2日間は寝込むほどではなくとも休み、勉強などせず、ゲームばかりしていた。 そんな生活を1週間もすれば学校に行きづらくなっていた。 「明日は登校しよう」 そう思っても、当日になり「明日でいいや」と先延ばしにする。 気が付けば、1カ月が経っていた。 学校は転校していないが、小学4年生の時に引っ越しをし、登校距離が550mから 1.6kmに増えたことも休みたい理由の一つになっていた。 2.父、祖母(父方)への嫌悪感 不登校になってから、毎日夕食時に父と祖母(父方)に「何で学校に行かないんだ!」「早く学校に行け!」「サボるな!」等、言われたことをよく覚えている。 また父が酔った時、 私に「何で学校に行かないんだ」 H「わからない 」 父「考えることができないならシネ」 と言われたこともあった。 こういったことから、今も父に対し少し嫌悪感がある。 カウンセリングなどに通うようになってからは、父が私に刺々しい言葉を言うことはなくなった。 おそらく、カウンセラーや医師から、父へ「攻撃的な言葉は控えるように」と言われたのだろうか。 国立の総合小児病院でのカウンセリングは、まず医師と私で1対1で話し、その後に両親と医師が話す形式だった。 両親が話している間、私は待合室で待機のため両親と医師の会話はわからない。 3.疎ましい人間 S.K 小学5、6年生の時の担任の先生S.K が私の嫌いなタイプの人間だったのも行きたくない理由の一つだった。 覚えているのが放課後、母に学校に連れて行ってもらい、できる範囲で...

引きこもり生活の始まり「逆流性食道炎」

私が引きこもりになった主な原因の一つに「病気」があります。 人間関係も理由ではありますが、今回はまず、私の人生を大きく変えた病気の話をしようと思います。 1.何気ない日常 小学4年生の3学期、私は2度ノロウイルスに感染しました。 それにより胃腸の働きが崩れ、逆流性食道炎を患いました。 1度目の感染から1週間ほどで回復し、登校したその日にまたかかってしまいました。 覚えているのが、2度目の感染の日のことです。 朝、友達と話をしていると、クラスメイトの女の子Aが真っ青な顔して教室に入ってきた。 彼女の友達B や先生が「Aちゃん、大丈夫?」 「保健室行く?」と周囲が心配していたが、A はそのまま授業を受けていた。 授業中、先生が黒板から振り返って「Bさん、袋!」と叫んだ。 Aの斜め後ろの席だったBは授業に集中していたためか、なんの事かわからず、Aが教室の床に嘔吐した。  未だに疑問に思うのが、何故先生はAにエチケット袋を渡さなかったのか、Aに渡していたが気持ち悪すぎて咄嗟に手で口を押さえたために袋に手を伸ばせなかったのか? 私はA、B、先生がなんと話していたのか知らないので真相は闇の中... 私の席はAの2つか3つ後の席だった。 席から横に体を出すとAの吐瀉物が見えた。 授業は中断され、AとB、先生以外は廊下に出された。 廊下で私は友達と 「Aの朝飯、絶対シチューだぜ!だってゲロの中に人参とじゃがいもみたいなの見えたもん!」 「マジかよ(笑)」 と何気ない会話をしていた。 今となっては、こんなこと言ってるからバチが当たったんだろと思ってます。 吐瀉物の処理が終わりAは保健室へ 授業が再開され、いつも通りの学校生活を送り帰宅。 2.悪夢の始まり その日の夜から腹痛と吐き気が襲い、次の日に近所の個人病院に診察へ ノロウイルスと診断され、1週間ほどでまた治るだろうと思っていたが、日が経っても良くならない。 それから週に2日ほど個人病院に通い、いろんな薬を試したが良くならず、1カ月が過ぎた頃、紹介状を書いてもらい地域の総合病院でエコー検査やX線検査などを受けたが、原因がわからなかった。 最終的に全身麻酔で胃カメラをした。 麻酔から覚め、母親に写真を見せてもらったら、胃の壁の一部が炎症していた。 逆流性食道炎と診断された。 3.原因が分かっても変わらず引きこもりに 地域の総合病院に...