不登校(中学生編)

小学校を卒業し、地元の公立中学校へ進学した。
しかし、入学式には出席せず、私は不登校のまま中学生になった。

今回は、不登校生活6年のうち、3年目から5年目にあたる「中学校時代の3年間」についてお話しようと思います。

1.数えるほどしか行かなかった1年生

1年生の時は、合計で10日も登校していなかったと思う。

学期が変わる際に行われた、校長先生・担任・母・私の四者面談で行ったことくらいしか覚えてない。


1年生の担任だったTは、小学5、6年生の時の担任S.Kほどではないが、苦手なタイプの人間だった。

何事も「良いじゃん、良いじゃん、ちょっとやってみようよ」と、人の気持ちを考えないで来るタイプの人間だった。

私は押し付けられるのが嫌いなので、自然と「Tとは合わないな」と思った。


兄三人が通った塾に、自分も通うことになった。
塾の先生はとても気さくな人柄で、接しやすかった。

しかし、塾へ行くたびに「H、今週は学校に行けたか?」と聞かれた。

先生に悪気はなく、純粋に心配してくれていることは分かっていた。
けれど、その期待に応えられない申し訳なさと、毎週の問いかけによるプレッシャーに耐えきれず、次第に休むようになっていった。


ある日、床屋の帰りに両親と塾へ顔を出しに行くと、先生が一人、埃まみれになりながら荷物の整理をしていた。

そこで、塾を閉校すると告げられた。私が入塾したとき、生徒は三人しかいなかった。

私以外の二人は中学受験が終わると同時に退塾しており、いつの間にか私一人の状態になっていた。


結局、先生には申し訳ない気持ちを抱えたまま、お別れすることになった。

この先生とは、休憩時間に雑居ビルの一室でよくキャッチボールをした。

また、先生が旅行先などで買ってきてくれたお土産を、一緒に食べたこともあった。

そんな温かい思い出があるからこそ、先生の期待に応えられなかったことが、今でも悔やまれる。

2.脱・不登校に向けた動き(2年生)

2年生の3学期から、放課後に別室登校をするようになった。

きっかけは自分の中で「不登校のままじゃ駄目だ」という思いが強まったこと。

私は親に、新しくできた別の塾へ通わせてほしいとお願いした。

塾では英語と数学を教えてもらっていた。
学力が小学4年生から進んでいないため、数学は算数から始めた。


週2日の通塾を機に、「学校にも少しで良いから行ってみよう」と思い始めた。

別室登校では、一人の別室登校専門の教師T2(1年生の時の担任Tと同じ頭文字のため、別室登校専門教師はT2とします)がおり、その人に塾の宿題を見てもらっていた。

T2先生には、自分の気になったことなどを教えてもらっていた。
とても話しやすい先生だった。


2年生の担任Uは家庭科の先生だった。
何を作ったか覚えていないが、自宅で母に教わりながらミシンで作った物を褒めてもらったのを覚えている。


2年生の思い出で覚えているのが、最後の方にあったスキー教室に参加したこと。

小学校から同じ同級生もいたが、ひきこもっていたため、人に話しかけにくかった。
そのため自由時間は、一人で布団の上にじっーと座っていた。

何人かに「おぉ!Hじゃん!元気になった?」と声をかけられたが、私は「うんぅ…それなりに…」や「あぁ…」など、曖昧な声が出ているのかいないのかわからない返事をしていた。


スキーは11歳の頃、北海道に家族旅行で行ったときに初めて滑った。

スキー板を着けたこともない初心者Hが家族に連れられて、いきなり上級者コースを滑らされた。

止まり方も分からず、ただスピードが出ては転ぶの繰り返しだった。
泣きべそをかきながら「スキーなんかやりたくない」と母に文句を言っていた。

最後の方では止まり方がわかり、「もう一回滑ろうよ!」と楽しくなっていた。


2年生のスキー教室では初心者組として参加した。
家族旅行では知らなかった、ターンやハの字以外の止まりかた、板を着けた状態での斜面の登り方など基礎を学んだ。

3.群衆の中、一人で過ごす日々(3年生)

塾に通い、別室登校を続ける中で少しずつ自信を持つようになり、3年生からは朝から登校しようと決心した。

久々に浴びる、朝の日差し。
学校に近づくにつれ、増えていく同級生たちの姿。

押し寄せてくる不安を、「制服も着たんだし、ここまで歩いてきたんだから、もう少しだ」と自分を鼓舞することでなんとか抑え込み、私は校門をくぐった。

始業式の日、皆は校門で一枚のプリントをもらい、クラス分けを見ながら「◯◯ちゃんと一緒のクラスだ!よろしくね!」「今年も一年よろしく」「また同じクラスじゃん!」など、和気あいあいとしていた。

話し相手がいない私は、一人、端の方で皆に背を向けるようにして、プリントを見つめていた。


体育館で始業式が始まり、教師の挨拶などが壇上で始まったが、誰が誰だか分からなかった。

自分が知っていたのは、2年生の時の担任Uと、3年生の時の担任Kだった。
また、1年生の時の担任Tはいなくなっていた。

3年の担任Kは中学校へ入る前からの知り合いだった。

私には兄が3人いるが、3人とも同じ小学校、中学校へ通っていた。
また次兄が中学に入学し、三兄が中学を卒業するまで、父が中学校の野球部の外部指導員をしていた。
その時の野球部顧問がKだった。

我々、四兄弟は小学1年生から6年生まで地元の野球クラブに入っていた。
私も病気になる前は、父についていき、中学野球部の練習を見ていた。
そこでよくKと会っていた。

新入生との対面式では、立ったり座ったりの繰り返しで貧血を起こし、Kに保健室へ連れていってもらった


別室登校専門教師T2が別の学校へ移動することになった。

お別れ会では生徒Bがお別れの言葉を壇上で読み上げ中に泣き出していた。

最後にT2が去り際に私に手を振ってくれた。
私はお辞儀をした。

この生徒Bは「引きこもり生活の始まり「逆流性食道炎」」で出てきたのBと同じ人物です。


ある朝、下駄箱で靴を履き替えていると、別のクラスの生徒が「何で最近来るようになったんだろうね…」とヒソヒソ話しているのが聞こえた。

私に対してなのかはわからないが、他の生徒には不思議に思われていたのか、何か気に障っていたのかと少し不安になった。


休み時間に一人で教室の自分の机に座っていると、他のクラスの生徒が目の前に来て「君、Hくんでしょ!喧嘩強いんでしょ!」と突然言われた。

私は首をかしげた。

小学2年生の時に鬼ごっこでクラスメイトと喧嘩をして、殴ってしまったことがある。

小学4年生の時にも、つむじが大きいことをハゲとからかわれ、殴ってしまったことがある。

これらの話に尾ひれがついて、「Hは喧嘩が強い」と噂になってしまったのかもしれない。

4.日常への不慣れ

4年間、規則正しい生活をしてこなかったため、学校生活には慣れなかった。

「月曜日は学校に行って、火曜日は休み、水曜日行って…」と行っては休み、行っては休みを3週間ほど繰り返し、また不登校に戻った。

勉強についていけないのも不登校に戻った理由の1つだ。

授業中、皆は何かをノートに書いているが、私は何をノートに書き留めればいいのか、分からなかった。

ただノートに板書すればいいのか、それとも自分の考えを書けばいいのか。

周囲が明確な意図を持って動いているように見え、それができない自分を突きつけられるのが辛かった。

それでも、塾には通い、テストの時だけは名前を書きに放課後に行ったりしていた。

5.不運続きの受験

3年生の成績表は1カ月ほど通ったため、斜め線ではなくほとんどがCだった。
(国語の「字が見やすい」の欄だけBだった)

1、2年生の成績表は全て斜め線 測定不能でカッコいいとちょっと思ったりもした(バカ)

成績が悪いため高校受験はチャレンジスクールかエンカレッジスクール、通信制高校のうちどれかを目指すことになった。

まずチャレンジスクールを受けたが落ちた。
次に通信制高校を受けたが、これも落ちた。

最後に3次募集のエンカレッジスクールを受けることになったが、試験前夜から朝にかけて寝れず、マイナスな考えばかりし、パニックになった。

朝、母が起こしに来た。
母「H、起きな」
H「行きたくない」
母「これを受けなかったら1年浪人だよ」
H「行きたくない」
母「そんなこと言わないで起きて」
H「いぎぃだぐっなぁぁいぃぃ!!!(泣)」
母が父や担任Kに電話をして、私に替わらせて話をさせようとするが、パニックになり「行きたくない」を連呼。

エンカレッジスクールの3次募集試験には行かず、担任Kが「夜間の定時制高校がまだ募集しているよ」と勧めてくれたが、行く気は無かったので1年浪人することに。

1年後、同じチャレンジスクールを受けて合格、一年越しに担任Kに合格の報告とお礼を言えた。

6.おわりに

中学生時代は、自分の学生時代の中でも一番思い出が少ないです。

そんな中でも2年生のスキー教室は楽しかった。人と話せなかったけど、ただスキーが楽しかった。

3年生は修学旅行があったんですけど、当日、体調不良で行けなかったです。


もし昔に戻ってやり直せるとしても、中学生時代は選ばないと思います。

やり直したいほど強い後悔がある小学校・高校時代に比べれば、この3年間はただ、過ぎ去っていった空白の多い時間だったので。

残りの不登校1年間は高校生編

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