不登校(高校生編)
1年の浪人を経て、チャレンジスクールへ進学
高校受験では1年浪人したため、大学受験では同じ轍を踏まないように高校生活は青春を楽しむより勉強を頑張ろうと思っていた。
4月から高校生活が始まると思っていたが新型コロナウイルスの緊急事態宣言により入学式が中止され、6月まで自宅学習に。
自宅学習期間は学校から教材が送られてきて、宿題も出された。
時々、会ったことのない担任の先生から規則正しい生活を送れているかなどのよくある質問に答えるだけの電話があった。
塾もオンライン授業だけになったので、外出が減った。
5月の終わりに、担任の先生から6月から通常授業が始まりますと連絡があった。
高校生活の初日は、教師と生徒だけ参加の簡単な入学式のようなものだった。
椅子に座って校長先生の話を聞き、担任の先生から予定表などを受け取って終わった。
他の生徒は半袖のYシャツを着ていたが、私は長袖のYシャツで登校した。
帰り際、校長先生に「今日は長袖暑いだろ!水分取って気をつけて帰れよ!」と言われた。
6月の曇りの日はまだ寒いだろうと思っていたが歩けば暑かった。
長らくひきこもっていた私は今日は気温が何度と言われても何を着れば快適かわからなかった。
高校での数学と英語の授業は基礎的なことしかやらなかった。
コロナの影響による授業の遅れを取り戻すためなのか、1年生だからなのかはわからなかった。
私は塾で数学と英語を学んでいたので高校の授業ではもっと発展的なことも教えてほしいと思っていた。(わがまま)
数学と英語以外は知らないことばかりだったので学びを得られて楽しかった。
同じクラスメイトで私のことをジロジロ見てくる女子Oがいた。
私がOの方に向くと、彼女は他の方に視線を逸らし、私が別の方を向くと彼女からの視線を感じる。
最初、ひきこもりによる私の肌の白さを物珍しく見ているのかなと思っていたが、何ヵ月経っても見てくるため、私が何か悪いことでもしたのかと不安になった。
体力測定があった。
腹筋を1分間に何回できるかや、シャトルランの回数など、いろいろなテストがあった。
最後の長距離走で私は倒れた。
ひきこもり期間に体力が落ちていたことで運動が苦手になっていた。
スタートから自分のペースで走り続け、苦しくなったら歩き、楽になったらまた走るということを繰り返していた。
他の生徒が走り終わる中、トラックには私一人だけが残った。
焦りから無理に走り続けてしまい、ペースが崩れてしまい、最後のコーナーで体育教師に向かって首を振り、倒れた。
ゴールはできなかった。
車椅子で保健室に運ばれ、約10分間ベッドで休んでいた。
体調が良くなったので、体操着から制服に着替え、体育教師に帰りますと伝えた。
(その日は体育が最後の授業)
ロッカーに荷物を取りに行くと、ジロジロ女子Oと彼女の友人4人がいた。
私が自分のロッカーで帰る準備をしていると
Oが「Hくん、大丈夫かな…」と言い、
彼女の友人が「話しかけてみたら」と返しているのが聞こえた。
彼らが私に話しかけて来る様子がなかったので、静かにその場から離れて帰ることにした。
コロナの影響で2泊3日の学校行事が日帰りの都内での校外学習になった。
私は後日に訪れた場所などを新聞などにしてまとめる作業があると思い、当日参加しなければその事後作業に加わらなくて済むと考え、出欠表の参加しないに丸をした。
出欠表には保護者の印鑑が必要だったので、母に出欠表を見せたところ「行きなさいよ」と言われたが、参加しないに丸をしてあるため私の考えは変わらなかった。
出欠表を提出すると、担任の先生に参加しない理由を聞かれた。
私は「コロナが怖くて…」と嘘をついた。
基礎疾患や持病があるわけでもないのに、楽をしたくて嘘までついた。
校外学習のグループで熱視線送信女子Oと同じ班になった。
みんなで行きたい場所を話し合いで挙げるが、私は「当日行かないから、行く人たちで決めて」と言った。
するとOが「Hくん、行かないの…」と少ししょんぼりしていた。
当日、私は学校へ行き、A4用紙を1枚渡され、校外学習の集合場所周辺の歴史や建物について、何でもいいから本やインターネットを使って調べてまとめるようにと言われた。
書き終えた人から帰っていいと言われ、私は電波塔についてのWikipediaを書き写した。
雨の中、書き終えて家に帰ると、班のグループLINEに参加者が訪れた場所の写真が送られてきた。
校外学習から1週間後になっても事後作業は行われなかった。
事後作業がないなら、行けばよかったと後悔した。
高校でただ一人、友人と呼べる人がいた。
O.Tだ。 ※1
体育の時間でペアを作ってと先生に言われ、他の生徒が仲の良い友達同士で組むなか、私とO.Tが残った。
私はO.Tとペアを組むことになった。
彼も運動が得意ではなかったので、体育のペアワークの時間に体育館の隅で二人で座りよくおしゃべりをしていた。
また国語の授業でも、席が隣でよく話をした。
縄跳びのペアワーク中 体育館の隅にて
H「みんなが縄跳びすると、体育館がかなり揺れるね」
O.T「そうね」
H「実は、体育館の下にはこの振動を使って発電する装置があるんだよ」
O.T「えぇ!すごぉ!」
H「まぁ…嘘だけど」
O.T「嘘かい!」
サイドクロス跳びに挑戦するO.Tと見届ける私
O.T「サイドクロスってのは頑張ればできるかも」
H「おぉ!是非見せてくれ」
O.Tが跳び、縄がO.Tの体に絡まってしまう
H「すごい!まるで必殺仕事人みたいに縄で自分で自分を殺めようとしてる!(笑)」
O.T「動けん(笑)」
H「ワシらに縄跳びは難しいね…」
O.T「そうね…」
H「大人しく座ってよ…」
2回目の校外学習があり、今回は参加したH。
O.Tと同じ班になり、よく喋り、よく歩き、楽しんだ。
こんなに楽しいなら、1回目も参加すればよかったとまた後悔した。
4月、学年が進んで2年生になった。
クラス替えがあり、O.Tとは別のクラスになった。
1年生の時のクラスメイト何人かと同じクラスになったが、話したことのない人たちばかりだった。
"H観察特別研究員"Oと同じクラスになった。
2年生の担任は、1年生の時の数学の先生だった。
担任の先生と面談で、先生から「何か学校への不満や気になることなどある?」と聞かれ、私は今まで思ってきたことを話した。
H「学校の数学と英語の授業で、もっと発展的なことを教えてほしい」
先生「Hくんは勉強できるから、自分で進めていくといいよ」
学校と塾だけでなく、自分でも参考書を買って勉強していたが、私としては学校側が何かアクションを起こしてくれることを期待してたため、先生の返答には落胆した。
その日から、学校へ行かなくなった。
母が朝起こしに来ても、H「行かない」と。
塾にも行かず、自主学習もやめて、またひきこもり不登校になってしまった。
学校が何もしてくれないなら、退学して高校卒業認定試験を受けて大学を目指そうと考えた。
父との話し合いで、高校をやめたい、勉強は続けたいと言ったが、父には「大学進学を目指すなら、高校に通ってる方がいいだろう。何も自分の思い道理にならないからってやめることはないだろ」「また不登校に戻るのか」「世の中甘くないぞ」と叱責された。
この日から父とは不仲になり、顔を会わせなくなり、夕食を一緒に食べなくなった。
長兄が仕事終わりに実家にきた。
長兄「H、大丈夫か、学校どうしたんだ」
H「勉強が嫌になっちゃった…」
長兄「学校は勉強だけじゃないぞ。勉強が嫌なら、その分遊んでみれば?」
H「うん…」
長兄が自分の高校時代の話しなどをし、私を励まそうとしていたが、何も響かなかった。
5月のゴールデンウィークに家族が集まった。
長兄夫婦が実家に泊まっていた。
父が寝たと思い、夕食を食べようと1階へ降りると、長兄と次兄が台所でタバコを吸っていた。
私は冷蔵庫からサラダを出し、食べ始めた。
次兄が「H、明日みんなで出かけるからHも行こうよ」と話しかけてきたが、私は無視をした。
次兄が「まぁ、Hも色々あるだろうから、気が向いたら明日行こうな。じゃあお休み~」と言って自分の家に帰っていった。
次兄が帰った後、長兄が「おい、今の態度はなんだ!次兄が話しているんだから無視するなよ」と言ったが、私はそれも無視をして、サラダを食べ続けた。
すると、長兄に首を絞められた。
私はこのまま楽になりたいと思い、抵抗しなかった。
ただ楽にはなれず、気を失っただけだった。
気がつくと椅子から転げ落ち、長兄が私に向かって怒鳴っていた。
父に対する私の態度や学校のことを言っていたと思う。
長兄に蹴られ、長兄の妻が止めに入る。
母と父、三兄が起きてくる。
長兄も酒が入っていたことがあり、長兄の妻と三兄が止めに入っても止まらなかった。
私は「説得できないからって暴力降るなよ!」
と反論した。
長兄に服の首元を掴まれ、玄関まで引きずられた。
長兄に「父さんのことが気に食わないなら出てけ!」と言われ、出ていこうとしたが、靴を履いたら長兄に「それは父さんの金で買ったものだろ!脱いで行け!」と言われるかもしれないと思い、もしそれを言われたら今着ている服までも脱がなきゃならないと考え、素足で外に出た。
二度と家には帰らないと決心し、失踪する覚悟で歩き始めた。
警察に見つかると補導されると思い、交番を避けて歩き続けた。
どこか草木が生い茂る人目につかない場所で3日も寝続ければ餓死するだろうと考え、探し歩いたがそんな場所は見つからなかった。
大通りを横断する時、トラックが来た瞬間に飛び出せば楽になれると思ったが、いざ車が近づくと一歩も踏み出せなかった。
家の近くの川沿いに小さな空き地があり、そこでフェンスを越えて川に飛び降りようと思ったが、3時間もアスファルトを素足で歩いたことで疲れて、フェンスを越えることができなかった。
朝になれば誰かが声をかけてくれるだろうと期待して、空き地に座っていたが、日が昇っても誰からも声をかけられなかった。
家族が出かけていることを期待して、家に帰って家出の準備をし、どこか遠くへ行こうと考えた。
車庫に車があるか見に行くと、車が置いてあった。
この時、朝の散歩に向かうであろう男性に変な目で見られた。
私は睨み返した。
男性は道を曲がるまで、恐る恐る私をチラチラと見ていた。
歩き疲れ、車庫に腰を下ろした。
ゴミ出しに家から出てきた母が泣きながら「よかった」「寒かったでしょ、お風呂沸かすから入りなさい」と言われた。
長兄が私に紅茶を渡して「これを飲んで温まって」と言った。
私は死ねなかったことや家に帰ってきてしまったことへの悔しさや悲しさで涙を流しながら風呂に入った。
風呂から上がると、長兄に「ごめん」と言われ、私は「自分が悪かったです。すみません」
と言い、仲直りした。
後から聞いた話だと長兄や次兄、三兄、両親が出ていった私を夜中に探し回っていたらしい。
その日、家族で出かけたが、前の晩に長兄に蹴られたことで首が痛かった。
家族からいろいろ言われたが、結局10月まで学校や塾へ行かずにひきこもっていた。
塾長から家に連絡があり、母が退塾することを伝えた。
また、学校からも10月までに一度登校しないと3年での卒業はできなくなると言われていたが、登校はしなかった。
退学することを担任の先生に電話で話し、面談をすることになった。
校長先生と担任の先生、自分の3人で面談をし、退学の理由やその後について話し合った。
校長「高校やめた後、何をするか決めているの?」
H「高校卒業認定試験を受けようと思ってます」
校長「その勉強は進んでいるの?」
H「はい、学校の教科書など使って勉強しています」
校長「う~ん、今すぐやめないで、来年の3月までうち(高校)にいて、高卒認定試験についてわからないことを聞きに来た方がいいんじゃないかな」
H「確かにそうですね」
校長「じゃあ、まずは1ヶ月に1回私に会いに来て。その時に勉強のことや気になることなど話そう」
H「わかりました」
この日から、毎月1回学校へ通うことになった。
校長先生との月に1回の面談は勉強の進捗について話し合い、校長先生お勧めの参考書などを教えてもらった。
担任の先生との面談で、先生が「Hくんは4月の二者面談以降、学校に来なくなったけど、私が原因だったの?」と聞かれたが、H「関係ないです。学校が嫌になっただけです」と答えた。
二者面談の先生の返答次第で不登校にならなかったとは思えない。
「自分で頑張ってね」と言われて、素直に「よし、この調子で続けていくぞ」とならなかった自分が悪いだけだ。
むしろ、学校が自分を特別扱いしてくれると思っているHの幼稚な考えがおかしいと今では思う。
3月になり、校長先生と担任の先生と面談をし、校長先生に「高卒認定試験に受かったら、専門学校か大学を目指すといいよ。頑張って」と励まされ、担任の先生に学生証を渡して退学した。
Hは不登校から受験生へと変わった。
退学後、高卒認定試験の勉強を続け、8月に試験を受けて合格した。
高卒認定試験に合格した後は毎日勉強していたが、年が明けるとやる気が失せてしまった。
年末は大掃除などで忙しくなるだろうから勉強はしないで、三が日はお墓参りなどで勉強ができないだろう考え、年末年始は勉強をしないことにした。
しかし、三が日が過ぎても勉強を再開しようとはしなかった。
大学進学を目指そうと頑張ってきたが、どうでもよくなってしまった。
高卒認定試験に合格して満足してしまったからなのか、勉強に飽きてしまったのかはわからないが、やる気がなくなってしまった。
年が明けてからは、勉強は全くやらなくなってしまった。
こうしてHは受験生から引きこもりニートへと変わった。
高校生活は小学校生活の次にやり直したいと思うほど、後悔があります。
退学せずに、2年生からは友達を作り、部活動に所属するなどして、勉強以外のことに熱中すれば良かったと思いました。
英語や数学の授業で席が近かったAくんが、国語の授業で「Hくん、LINEやってる?クラスLINEに入らない?」と誘ってくれたけれど、私は断った。
2回目の校外学習のグループLINEを作っているとき、Aくんが「Hくん、俺とも交換してよ!」と言われ、渋々交換したこともあった。
この時、Aが「OもHくんとLINE交換したら?」と"H静観者"Oに提案したが、Oは「いいよ、私は…」と言って交換しなかった。
しかし、Aくんとは2週間経っても何のやり取りがなかったので、結局AくんとのLINEを消してしまった。
今まで家族以外の人と関わりがなかったため、LINEを交換することが少し怖かった。
(どんなことを言われるかわからなかった)
校外学習の班のグループLINEも、終わった後にすぐ抜けるのではなく、そのままにしておけば2年生になってから話し相手になれたかもしれない。
自分から人とのつながりを切っていき、孤独に向かって進んでいったのは、もったいなかったと思う。
昔から「一度決めたら絶対に変えない」という頑固な性格があって、途中から考えを変えようとしない。
もう少し柔軟に考えを持てる方が良いと自分でも思う。
今振り返ると、Oは私と仲良くなりたかったのかもしれない。
仲良くなれば私から話しかけるのは苦ではないが、話したことのない人に声をかけるのは昔から苦手だった。
もし何か話しかけてくれたら、仲良くなれたのかもしれない。
O.Tくんとも学生時代LINEを交換したが、消してしまった。
別の媒体で知り合って、また交換した。
(特に会話が進むこともないが…)
約6年間の不登校生活で、良いことはないです。
不登校になって良かったと思ったことは一度もなく、振り返ると人間関係や自分の行動についての後悔ばかりが思い出されます。
青春という物を経験しなかったのは、一生の後悔になるだろうと感じています。
不登校になってからは、常に希死念慮が頭の片隅にあり、何度かそういったことをしたこともあります。
不登校になって一番の後悔はこの希死念慮が現れたことだと思います。
先のことはわかりませんが、これが一生付きまとってくるものだと自分では思っています。
プラスに考えれば、他の人がなかなか経験できないことをしてきたとも言えますが、この経験を何かに活かせているかと問われると、活かせていないと思う。
今は引きこもりニートで、何もしない日々を過ごしていますが、愚痴がてら思ったことをブログに書いていこうと思います。
※1 ジロジロ女子Oと友人O.Tは別人です。
頭文字が一緒
(ジロジロ女子Oの友人にも頭文字がOの人が一人いた)
(クラスで頭文字がOは3人はいた)
ジロジロ女子O、熱視線送信女子O、"H観察特別研究員"O、"H静観者"O、は同一人物です。
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