顔出しは自信の証
「インターネットに自身の顔を出している奴は、自分に自信がある」
これは私の持論であり、あるいは「偏見」と呼ぶべきものかもしれない。
なぜそう思うのか、その理由を書いてみようと思います。
1.「顔出し=自信」という持論
私が言う「自信」とは、単に「美人である」とか「容姿が整っている」といった話ではない。
たとえ世間一般でいう不細工であったとしても、それを自分の「アイデンティティ」として受容し、閲覧数や知名度の獲得に有利に働くと確信しているからこそ顔を出す。
それもまた一つの自信の形だと思う。
例えば、人より頭が長いことにコンプレックスを抱いている男がいるとする。
本人は面長であることを恥ずかしいと思っているかもしれない。
しかし、その容姿にしかできないこともあると気づければ、それを利用しようと考える。
「この頭の長さを活かして、フランケンシュタインのコスプレをしよう」といった具合に。
これこそが、私の考える「顔出し=自信」の正体である。
2.自信というよりはナルシスト
「自信がある」と言えば聞こえはいいが、悪く言えば「ナルシスト」だということだ。
いっそ、「インターネットに顔を晒している奴らは、漏れなくナルシストである」と定義を改めてもいい。
YouTubeを見れば、容姿が整っているというだけで初投稿から数十万再生を叩き出す者がいる。
奴らは自分の武器の使い方を熟知している「賢しい連中」だ。
こうした動画は、興味がなくとも「おすすめ」に流れてくる。
「これほど再生されているなら中身も面白いのだろう」と期待して開いてみても、そこにあるのは自慢の容姿を際立たせるアングルだけで、動画の内容は空っぽで何もない。
また、よく見かけるのが「うつ病」や「病みがち」といった、こちらの同情や疑心を煽るようなタイトルをつけ、サムネイルに自身のキメ顔を晒している連中だ。
奴らのことは「ビジネス精神弱者」と呼ぶべきだろう。
そもそも、本当にメンタルを病んでいる人間が、不特定多数に自分の顔を晒せるだろうか。
精神的に追い込まれていれば、自分に対して否定的になり、とても顔を出す勇気など湧かないはずだ。
これは私の経験からも断言できる。
むしろ潔く「私の顔、整いすぎじゃない?」とか言っている方が、まだ嫌味がない。
クリックするかと言われれば、私はしないけれど。
3.承認欲求という依存
しかし、書いているうちに逆の可能性にも思い至った。
ネットに顔を出している者が、必ずしも自信に満ち溢れているとは限らないのではないか。
自分に自信がないからこそ、他人からの評価(いいねや閲覧数)にアイデンティティを依存しているのかもしれない。
私はネットに顔を出していないが、彼らと同様に「数字」に囚われることがある。
ブログや配信の閲覧数が増えていると、つい口元が緩む。
収益化をしていないので実利は何もないのだが、「こんなにどうでもいい話を読んでもらえた」という事実に、自己肯定感の低さを埋めてもらおうとしているのだ。
「数字に囚われず、気ままにやろう」と心に決めても、翌日には管理画面を確認しに行っている。
承認欲求モンスターにならないよう気をつけてはいるが、何年後かには私も「ビジネス精神弱者」として、ネットの海を漂っているかもしれない。
4.美人を妬んでいるわけではない
数字に囚われる自分の醜さを自覚したところで、一つ断っておきたい。
読者は「Hは容姿に強いコンプレックスがあるのか?」と思うかもしれない。
だが、決してそういうわけではない。
私は自分のことを、どこにでもいる「モブキャラ」だと思っている。
(どこにでもいる顔なら、いっそ暗殺者にでもなれば重宝されるかもしれない)
ただ、私には奴らのような自信がない。
ブログに自身の話を投稿しているが、内容は暗い話ばかり。
これらが武器になるとは到底思えない。
私はただ、自身の暗い過去を昇華したくて書き吐いているに過ぎない。
過去の事実は、今さらどうあがいても変えられないのだから。
5.私は奴らが羨ましい
「結局、ネットに顔を出す連中が嫌いなのだな」と思うかもしれないが、それも少し違う。
自分に自信を持てない私からすれば、実際のところ彼らのことは「羨ましい」のである。
誤解しないでほしいが、ネットに顔を晒したいわけではない。
ただ、それだけの「自信」を持っていることが羨ましいと思っているだけ。
私はこれまでの人生で、自分を肯定できるような経験を積み上げてこられなかった。
もし自分に自信があったなら、何事にも臆せず挑戦できただろう。
暗い部屋で一人うじうじと考え込むだけの人生を歩まずに済んだのではないか。
そう想像せずにはいられないのである。
自信のない私にできるのは、こうして日々思ったことを、拙い文章で書き上げて投稿することくらいなのである。
悲しきかな、我が人生
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