共感は時に人を傷つける
両親や行政の相談員に自分の現状を話すと、共感されることがある。
しかし、その共感は私にとってマイナスにしか受け入れられない。
今回は、私が感じた「共感」という優しさの裏に潜む、ある種の「凶器性」についてお話ししようと思います。
1.両親、相談員による共感
例えば、視界に黒い点が見えることを話すと、父は「父さんもよく目を瞑るとアメーバみたいなのが見えるよ」と返される。
自分もそれは見えるが、私が言っていることとは違う。
私が言っているのは、ふとした拍子に視界の端の壁に、ハエのような小さな黒い点が見えるが、瞬きをすると消えること。
母との会話でも
「何に対してもやる気が起きない」と漏らすと、「お母さんもそういう時あったよ」
と言う。
何に対しても、
「私たちもそういう時あった」
「そのうち変わるよ」
「誰しもそういう考えあるよ」
「同じ同じ」と返される。
これらが優しさからなのか、私の不安を取り除きたい一心なのかはわからない。
けれど、無理に共感して「Hは普通だよ」と思い込ませようとしているように思えてしまう。
行政の相談員との会話も、ただひたすら共感されるだけで1時間が過ぎていく。
三兄との相部屋が辛いと漏らせば、「一人部屋じゃないとなかなか気が休まらないですよね。Hさん、早く一人部屋になれるといいですね。そうすれば何か良くなるかもしれませんし」と返ってくる。
相談員の態度や口調が高圧的だということは決してないが、この共感には、「一人部屋になったら、今までの怠け腐った生活をさっさと変えろよ」と脅されている気分になる。
また両親に貸しているお金の話でも
「このままだとご両親は全額返してくれるか分からないんですよね。月にいくらって返済額を決めた方が良いと思うんですよ」と助言される。
これに関しては、「貸しておいてちゃんと返金してもらう手立てを考えていなかったんだね。軽率だね。バカだね」と、自分の行いを貶されているように思えてしまう。
2.普通という枠に囚われる
自分は相手の言葉の裏を考えてしまい、悪いように受け取ってしまう。
だから、共感されることでかえって傷つくのだと思う。
自分としてはどちらかと言えば共感してほしいのではなく、「H、お前は普通じゃない」と認めてほしいのかもしれない。
むしろ自分が普通なら、なぜ働きもせず一日中引きこもっているのか、これのどこが普通なのかと自分を責める理由になってしまう。
自分の現状に対しての共感は、「あなたは普通で働いたりしないのはただ怠けているだけ」と言われている気持ちになってしまう。
多からずとも朝から原因不明の不安に飲まれたり、自ら命を絶つことが頭の片隅にこびりついて消えない苦しさがあるのに、「普通」と共感されるのはとても辛い。
3.マイナス思考に囚われる
単純に自分がマイナスな考え方をしなければ良いだけの話なのだが、長年の引きこもり生活による自責の念から悪いように考えてしまう。
もう少し相手の言葉を素直に受け止める癖をつけるようにするべきだと分かってはいる。
思考回路に染み付いたマイナス思考を取り除くためにも、何か希望を持てるようにならないと、悪い考え方にこの先ずっと囚われてしまうと思った。
しかし、自分のこの先の人生に希望を持てるよう、右肩上がりの妄想じみた考えをしても、結局はそれを実行するだけの気力がなく、「取らぬ狸の皮算用」となり、かえって悲しくなってしまう。
まるで抜け出せない負の迷路ように感じてしまう。
物事は捉え方一つでプラスにもマイナスにもなるとは言うが、今の自分には暗い考え方しかできないように思えてしまった。
それでも、この囚われから抜け出すために、まずはプラス思考になれるよう、些細なことからポジティブに捉えていこうと思う。
4.おわりに
振り返ってみて、「良かれと思って」かけられる優しい言葉にも、時として棘があると書いていて気づきました。
共感とは、相手の真意を理解した上で行われないと、肯定ではなく、否定に繋がってしまう。
表面的な共感はかえって相手を傷つけてしまう。
安易に「わかるよ」と口にする前に、その言葉が相手を「普通」という枠に閉じ込め、追い詰めていないか。
一歩下がって考えてみるのが大事だと思いました。
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