不登校(中学生編)

小学校を卒業し、地元の公立の中学校へ進学
入学式にも出ず、不登校のままでいた。

1年生の時は合計で10日も学校に行ってなかったと思う。
学期が変わる時に、校長先生と担任の先生、母と自分の四者面談で行ったこと位しか覚えてない。
1年生の担任の先生Tは小学5、6年生の時の担任の先生S.K程ではないが苦手なタイプ人間だった。
何事も「良いじゃん良いじゃんちょっとやってみようよ」と人の気持ちを考えないで来るタイプ人間だった。
私は押し付けられるのが嫌いなので、自然とTとは合わないなと思った。


2年生の時は3学期から放課後、別室登校をするようになった。
きっかけは自分で不登校のままじゃ駄目だと思い、親に塾に通わせてほしいとお願いした。
塾では英語と数学を教えてもらっていた。
学力が小学4年生から進んでいないため数学は算数から始めた。
毎週2日、塾に通い、学校にも少しで良いから行ってみようと思い始めた。
別室登校では、一人の別室登校専門の教師T2がおり、その人に塾の宿題を見てもらっていた。
※1
T2先生には自分の気になったことなど色々と教えてもらっていた。
話しやすい先生だった。

2年生の担任Uは家庭科の先生だった。
何を作ったか覚えてないが、自宅で母に教えてもらいながらミシンを使い、作った物を誉めてもらったのを覚えている。


2年生の思い出で覚えているのが最後の方にあったスキー教室に参加したこと。
小学校から同じ同級生もいたがひきこもってたため、人に話しかけにくかった。
そのため自由時間は一人で布団の上にじっーと座っていた。
何人かに「おぉ!Hじゃん!元気になった?」と声をかけられたが「うんぅ…それなりに…」や「あぁ…」など曖昧な声が出ているのかいないのかわからない返事をしていた。

スキーは11歳の頃、北海道に家族旅行で行ったときに初めて滑った。
スキー板を着けたこともない初心者Hが家族に連れられて、いきなり上級者コースを滑らされた。
止まりかとも分からずただスピードが出ては転びの繰り返しだった。
泣きべそをかきながら「スキーなんかやりたくない」と母に文句を言っていた。
最後の方では止まりかたがわかり、「もう一回滑ろうよ!」と楽しくなっていた。

2年生のスキー教室では初心者組として参加した。
家族旅行では知らなかった、ターンやハの字以外の止まりかた、板を着けた状態での斜面の登り方など学んだ。


3年生になり、朝から登校するようになった。
始業式の日、皆は校門で一枚のプリントをもらいクラス分けを見ながら「◯◯ちゃんと一緒のクラスだ!よろしくね!」「今年も一年よろしく」「また同じクラスじゃん!」など和気あいあいとしていた。
私は話し相手がいないため一人端の方で皆に背を向けてプリントを見ていた。

体育館で始業式が始まり、教師の挨拶などが壇上で始まったが誰が誰だか分からなかった。
自分が知っていたのは2年生の時の担任Uと3年生の時の担任Kだった。(1年生の時の担任Tはいなくなっていた)

3年の担任Kは中学校へ入る前からの知り合いだった。
私には兄が3人いるが、3人とも同じ小学校、中学校へ通っていた。
また次兄が中学に入学し、三兄が中学を卒業するまで父が中学校の野球部の外部指導員をしていた。その時の野球部顧問がKだった。
我々、四兄弟は小学1年生から6年生まで地元の野球クラブに入っていた。
私も病気になる前は、父についていき、中学野球部の練習を見ていた。
そこでよくKと会っていた。


新入生との対面式では立ったり座ったりの繰り返しで貧血を起こし、Kに保健室へ連れていってもらった


別室登校専門教師T2が別の学校へ移動することになった。
お別れ会では生徒Bがお別れの言葉を壇上で読み上げ中に泣き出していた。
最後にT2が去り際に私に手を振ってくれた。
私はお辞儀をした。 ※2


朝、下駄箱で靴を履き替えていると別のクラスの生徒が「何で最近来るようになったんだろうね…」とヒソヒソと話しているのが聞こえた。
私に対してなのかはわからないが、他の生徒には不思議に思われていたのか、何か気に障っていたのかと少し不安になった。


休み時間に一人で教室の自分の机に座っていると、他のクラスの生徒が目の前に来て「君、Hくんでしょ!喧嘩強いんでしょ!」と突然言われた。
私は首をかしげた。
小学2年生の時に鬼ごっこでクラスメイトと喧嘩をして、殴ってしまったことがある。
小学4年生の時にも、つむじが大きいことをハゲとからかわれ、殴ってしまったことがある。
これらの話に尾ひれがついて、Hは喧嘩が強いと噂になってしまったのかもしれない。


4年間、規則正しい生活をしてこなかったため
学校生活には慣れなかった。
月曜日学校に行って、火曜日は休み、水曜日行って…と行っては休み、行っては休みを3週間程繰り返しまた不登校に戻った。

勉強についていけないのも不登校に戻った理由の1つだ。
授業中、皆は何かをノートに書いているが、私は何をノートに書けば良いのか分からなかった。
ただノートに板書すればいいのか、それとも自分の考えを書けばいいのか、皆は考えがあって行動をしているが、私には出来なかった。

不登校に戻っても塾には通っていた。

テストがあると名前だけ書きに放課後行ったりしていた。


3年生の成績表は1カ月ほど通ったため斜め線ではなくほとんどがCだった。
(国語の(字が見やすい)の欄だけBだった)
(1、2年生の成績表は全て斜め線 測定不能でカッコいいとちょっと思ったりもした(バカ)

成績が悪いため高校受験はチャレンジスクールかエンカレッジスクール、通信制高校のうちどれかを目指すことになった。

まずチャレンジスクールを受けたが落ちた。
次に通信制高校を受けたがこれも落ちた。
最後に3次募集のエンカレッジスクールを受けることになったが、試験前夜から朝にかけて寝れず、マイナスな考えばかりし、パニックになった。

朝、母が起こしに来た。
母「H、起きな」
H「行きたくない」
母「これを受けなかったら1年浪人だよ」
H「行きたくない」
母「そんなこと言わないで起きて」
H「いぎぃだぐっなぁぁいぃぃ!!!(泣)」
母が父や担任Kに電話をして、私に替わらせて話をさせようとするが、パニックになり「行きたくない」を連呼。

エンカレッジスクールの3次募集試験には行かず、担任Kが「夜間の定時制高校がまだ募集しているよ」と勧めてくれたが、行く気は無かったので1年浪人することに。

1年後、同じチャレンジスクールを受けて合格
一年越しに担任Kにお礼を言えた。



中学生時代は自分の学生時代の中でも一番思い出が少ないです。
そんな中でも2年生のスキー教室は楽しかった。人と話せなかったけど、ただスキーがおもしろかった。
3年生は修学旅行があったんですけど、当日、体調不良で行けなかったです。
もし昔に戻ってやり直せるとしても中学生時代は選ばないと思います。
やり直したいと思うほどの後悔が小学生時代、高校生時代ほど無いので。

残りの不登校1年間は高校生編


※1 1年生の時の担任Tと同じ頭文字のため別室登校専門教師はT2とします。

※2 この生徒Bは逆流性食道炎で出てきたのBと同じ人物です。

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